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映画『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』レビュー

斬新なタイトルが印象的なこの映画は、ニートがブラック企業に就職してからの半年間をインターネット掲示板をとおして振り返る物語です。

≪現代風の描写≫

インターネットの掲示板に書き込まれた同タイトルのスレッドを立てた主人公の話です。主人公であるマ男が入社からの半年間を掲示板の書き込みに沿って振り返るかたちで物語が進行していきます。現代ならではの描き方ですが、とても大げさなテロップや描写によって、掲示板自体に詳しくなくても物語の内容は理解できるように工夫されています。

プログラマーという主人公の職業から「デスマ」などの専門用語が出てきますが、詳しくない人でも理解できるようなシーンのたとえもあり、意味が映像でイメージしやすかったです。

現代風の専門職という設定で進むストーリーながら、疑問を残したまま進んでしまうことがなく、世代が違っても観られる作品だと感じました。

 

≪強烈な個性のキャラクター≫

登場するキャラクターは、そんなヤツいないだろう!と突っ込みを入れたくなるような人物ばかりですが、誇張して表現されてはいるものの、実際にブラック企業にはいるんですよね、こういう強烈なキャラクターの人々が。独裁者のような人、相手でコロコロとカメレオンのように態度を変える人、常識の皮をかぶった非常識人…。

そんないないようで実際にはいる現実的なキャラクターたちにより、強く共感できるシーンも多いです。元ニートだったとはいえ就職してからは仕事に対してマジメな主人公に自分を重ねる人も多いのではないでしょうか。

残念なのは、このストーリーの中で唯一の救いである藤田さんが、現実にはいないことです。私の場合はこの映画を鑑賞しながら、藤田さんのような人がいたら自分も頑張れていたのかな、いや、やっぱりそこまで頑張る必要あったのかな、などと過去の自分との葛藤がありました。みなさんも観る人それぞれの立場から思うことがいろいろあるのではないでしょうか。

 

≪ブラック会社あるある≫

残業が当たり前なのは今ではどこの会社も同じかもしれませんが(と思っている私が麻痺している?)、とある雑誌を目にしたことで主人公は早くも入社初日に、自分はブラック会社に就職してしまったと気づきます。

そして主人公は、厄介な先輩や上司に立ち向かうように仕事をバリバリとこなし、2週間でリーダーに昇格します。これがブラック企業あるあるだと感じてしまったのですが、もちろんこの映画の場合、タイトなスケジュールをこなして納期に間に合わせたという、彼の成果を評価してのことだと思います。ですが、ブラック企業は割とすぐに昇格という階段をのぼることが出来るというイメージがあります。簡単にリーダーなどのまとめ役に昇格して自分の実力が認められたように感じるのですが、次に待っているのは理不尽な責任の押し付け合いだったりしませんか。

そんなリアルなブラック企業の現状もしっかりと描かれていて、思わずため息が出てしまいました。

 

≪危険を感じる結末≫

タイトルを見たとき思ったのは、この映画の結末はどんなだろうということでした。昔も今も、社会人の多くが抱えているブラック企業問題を描いた作品。一体どんなメッセージが込められているのだろう、という期待のなか鑑賞しました。私の感想は「ダメでしょ」でした。ブラック会社に就職し、理不尽な扱いを受けながらも立ち向かう主人公。その姿には共感を覚えました。けれど、最後の「これが生きてくってことなんだ」には正直ガッカリしてしまいました。ブラック会社の問題が何一つ解消されていないどころか、そこにただ勤め続けるという選択をした主人公。彼は変わりたいと感じていました。主人公が葛藤したのは過去にニートだった自分との決別でした。それはいいのですが、なぜニートの自分と決別して、ブラックな会社に勤めるという選択しかなかったのだろう?という疑問が残りました。

あとがない、という主人公はおそらくまだ20代。これが30代であったとしても、選択肢はまだまだあったのではないのか、と思わずにはいられません。

この映画は2009年の作品なので、今ならもっと違ったストーリーになっていたのかもしれません。当時はまだブラック企業という言葉が浸透して数年くらいしか経っていなかったのではないでしょうか。勤め先がブラック企業だったとしても、ニートよりはいい、という考え方だったのかもしれません。

社会人として生きる道は、ブラック企業に勤めることだけではないはずです。心身ともに疲弊し、本来の自分を見失う恐れのあるブラック企業というものを、社会そのものだと思ってしまうことの恐ろしさを感じた作品でした。

映画『最強のふたり』(吹き替え版)レビュー

2011年のフランス映画で、実話に基づいて描かれた作品です。頚椎を損傷し、頭以外が麻痺した富豪と、その介護をすることになった貧困層の青年との物語。富豪フィリップをフランソワ・クリュゼが、介護人ドリスをオマール・シーが演じています。

 

鑑賞のきっかけ

この作品が当時かなり話題になっていたことは知っていましたが、少し難しそうだな、という勝手な思い込みからなかなか観ようという気になりませんでした。テレビでの放映をきっかけに吹き替え版を鑑賞したら、コミカルに描かれた二人の友情に笑いが止まりませんでした。思い込みってもったいないですね。この映画を観られてよかったです。次は字幕版を観て、表現の違いを感じてみたいです。

 

ふたりの出会い

ドリスはフィリップと出会い、その姿を見て「厄介だな」とひとこと。障害者ということへの妙な遠慮や配慮という言葉は彼には無縁でした。なんだか、サインひとつもちょっとやりにくそうだね、というくらいの感覚で障害を捉えるドリスがとてもいい味を出しています。フィリップはそんな遠慮なしにくるドリスを気に入ります。フィリップにとって障害への気遣いなどは不要なものでした。ひとりの人間として接するという、当たり前のように思えることがなかなか出来ていなかったりするものだな、と考えさせられます。けれど終始、物語のタッチは軽やかで、バックミュージックにはクラシックが流れていたり高そうな絵画が飾られていたり、たとえ高級な家具のそろった部屋が登場していても、ドリスが片っ端からその緊張感を解いてくれるという感じでとても観やすかったです。たくさん笑ってしまいました。

 

人と人

慣れない介護に戸惑いながらも、ちょっと雑な世話をドリスなりに一生懸命こなしていきます。フィリップが口に棒を加えてページをめくりながらの読書中、携帯が鳴ると「はい」と手渡すドリス。自分がボタンを押して携帯を耳にあてるのだということに気が付かず、ごめんごめん、フィリップが読書用の棒をくわえたままで話せないことにも気づかず、ごめんごめん、といった調子です。そんなドリスの姿をフィリップはうれしく思っていました。障害者という見方をしていないからこその言動に、ときに迷惑がりながら一緒に笑い転げる関係がだんだんと築き上げられていたのです。そのあたたかみのあるエピソードにほっこりさせられます。

 

深まる絆

作中では短期間で彼らの関係が一旦終わりを迎えます。しかし、元となった実話では10年間にわたりパートナーとして生活をしていたそうなので、その友情と絆はとても深いものだったことが分かります。

ある日フィリップが薬の効かない発作を起こし、息をしたいとドリスに頼みます。真夜中にも関わらずドリスはフィリップに毛布をかけて外へと連れ出し、一緒にパリの風に当たりながら、街を歩きました。そのうちフィリップの発作もおさまり、落ち着きを取り戻したのでした。この「息をしたい」というワードが何シーンかに出てきます。字幕版でどういう表現をされているのか気になるところです。フィリップが想い人と初めて会うというときも、障害者であることを知られる恐怖からお酒をあおり、待ち合わせ時間直後になってドリスに電話をして「息をしたい」と懇願します。ドリスは詳しいことは聞かずに彼をその場から連れ出すのでした。

 

言葉のいらない関係

二人がドリスの家庭の事情から別れを決断してしばらくしたとき、フィリップは再び発作に襲われるようになります。気難しいフィリップに担当はコロコロと変わり、彼自身も不安定な状態になっていました。呼び戻されたドリスは変わり果てた彼の姿を見て、彼に「息」をさせるため、パトカーに追われながらも海が見渡せる場所へと連れて行きます。本当のフィリップの気持ちを察することができるのはドリスでした。海を目の前にしたフィリップは生きることを思い出したように、目に涙を浮かべました。

事情を説明しなくても、息苦しさから解き放つ方法が分かるフィリップとドリスの関係は、介護人と障害者という枠をとっくに越えていました。これこそが絆なんだなと感じさせられるシーンが「呼吸」というキーワードで表現されていて、こちらもそのたびに深く深呼吸したくなるような気持ちになります。

 

友情をも越えた深い絆を、終始重くなりすぎない軽やかなタッチで丁寧に描かれている作品でした。モデルとなったふたりの関係は今も続いていると締めくくられています。

 

映画『Vision』レビュー

今回は河瀬直美監督作品『Vision』のレビューを行いたいと思います。なかなか個性あふれる作品でした。確実に好みの別れる映画です。話の内容を簡単にまとめつつ、私なりのコメントも合わせてご紹介したいと思います。ネタバレが含まれますので、話の内容を知りたくないという人は、閲覧をお控えください。全てのストーリーを紹介することはありませんが要所要所の場面には触れていきます。

 

まず、物語を語る上で避けては通れないキーワードから。映画のタイトルにもなっているように、Visionについてお話ししましょう。Visionとは、約1000年に1度しか胞子を飛ばさない幻の薬草とのこと。映画の冒頭では、そんな説明です。というのも、山に住む男の元を2人のフランス人(一人は日本人だが、フランス語を話せるという設定なのか)が訪れ、このVisionを探し求めます。フランス人女性の1人を演じるのはかの有名なフランスの女優であるジュリエット・ビノシュ。彼女は、Visionについての研究をフランスで行い、難解な計算を解いて…その結果、今年、その山でVisionという草がお目にかかれるのだと判断したとのこと。

 

主人公である永瀬正敏は、山に住む住人です。彼は、フランスからの客を二人、泊めてやることにしました。最初は、片方のフランス人(つまり、フランス語が話せる日本人か)が通訳をするのですが、途中から、なぜか…その人が「おばあちゃんの家にいく」と言って消えてから、英語での会話が始まります。これには違和感を覚えてしまいます。なぜ、今までは、通訳なしでしか会話ができていなかったのに、いきなり、英語が普通に話せるようになるのか。しかも、山奥に住む主人公が、普通に英語を話せることの説明がどこにも見当たりません。英語が話せてもいいのですが、その際に「あ、話せる。どこで英語を?」などのリアクションがあるべきでしょう。しかし、そんなこともなく、英語を話せて当然かのように、物語が展開します。

 

フランス人女性が主人公の家に住み始めてすぐ、二人のラブシーンがあります。いきなり、女性がキスを仕掛けて、謎のラブシーンが始まります。が…これの位置づけは最後まで不明なまま。私個人としては、決していらない時間であったように思えます。その女性がただ気まぐれに男の人に手を出したような印象に終始していると言わざるを得ないでしょう。そして、フランス人女性は一度、フランスに帰国します。

 

そうこうしているうちに、どこからともなくある青年が現れます。一人ぼっちになっていた男性は、遭難していた青年を助け、家に泊めます。すると二人は意気投合。フランス人女性がまた帰ってくるのですが…彼女は嫉妬したような表情で、「いつからここに?」と尋ねます。ものすごい、不機嫌そうです。これの説明がつきません。なぜ…何が気に入らないのか…これがわからないままに、話は進んでいきます。英語での会話ですが…新しく家に加わった青年は映画わからないので、主人公である男性が通訳をします。青年が作った料理を食べたフランス人女性が「美味しい」といったら、それを通訳していました。しかし、ある日、急に、青年は英語を話すようになります。歯がゆい展開が続きます。映画的に大げさに説明する必要はないのですが、せめて、「え?いきなりなんでこんな矛盾が?」という部分は、ちゃんと責任を持って、辻褄合わせをしてもらいたいものですが…そんなものはありません。

 

河瀬直美監督は、自分で作りたいものを作っているのかもしれませんが、それが人に見せる作品になっているかというと、少し疑問が湧きます。自分で作って、自分で楽しんで、それを家族に見せる程度ならよかったのかもしれません。無料で公開する場合も何も問題ありません。お金を取っておいて、ランダムな思考を「はい」と手渡されたような印象です。

 

芸術的な側面を強くすること自体は賛成です。そんな映画があってもいいと思います。芸術的で、見ていて、気持ちいというか…ああ、芸術作品を見ているのだ…という感覚です。かと言って、この作品は芸術作品にもなりきっていません。どこかで、「このあと、話の辻褄が合うのだよ…」と匂わせておいて、一気に、放置される。これの連続です。裏切りにも気持ちのいいものと悪いものがありますが、この作品は誠に後者に甘んじています。黒澤明監督の『夢』のように、芸術的な鑑賞ができるのなら、いいのですが、そうでもありません。

 

この芸術的要素を入れたい…このストーリーにしよう…ああ、でもこの話はやめとこう…というその場の考えがつぎはぎされた…そんな印象を受けてしまいます。全体がどうも密着せず、浮き足立ってしまっています。作品を最後まで見ても、Visionが一体なんなのかが不明なまま。薬草や植物であるかどうかすら謎です。この監督のファンの人が見ても、ひょっとすると「はい?」で終わるのかもしれません。

 

芸術的な要素にこだわるのか、それとも、ストーリーに整合性を持たせるのか。どちらかはっきりすることで、この作品は改善できるのかもしれません。ツアーに参加したのに、予定されていた見所をすっ飛ばして…弾丸ツアーが終了した。そんな気分になってしまいました。どれだけ「芸術的な」作品を好む人でも、これには首をかしげるのではないでしょうか。

映画『ラヂオの時間』レビュー

 

 

今回は三谷幸喜監督作品『ラヂオの時間』についてのレビューを行いたいと思います。あくまでも私の視点からのコメントになりますが、ご容赦ください。ちなみにラヂオの時間はNetflixで現在公開中ですので、すでに登録されている方は是非ともチェックしてみてください。

 

煩雑な雰囲気が秀逸

 

『ラヂオの時間』には煩雑な雰囲気がたっぷり盛り込まれています。あっちで小言が聞こえ、こっちで怒号が飛び。通常、映画は、決められた空間が前面に出てしまうものです。例えば、あまりにも、相手が話している間、沈黙を守ったり、決まり切った順番で人が話し…といった具合です。この映画には、そんな不自然さがありません。映画である以上、セリフが決められているのですが、それを全然感じさせない、絶妙な空気感が漂っているのです。いいい意味での、気持ちのいい「煩雑さ」があるのではないでしょうか。三谷幸喜監督の作り出した、ナチュラルな空気感であり、それを役者が見事に体現しています。

 

登場人物の個性が絶妙

 

登場人物の個性にはやられます。それぞれに「こんな人いるよな〜」と思ってしまうのです。そして、次の瞬間には感情移入をしてしまいます。人それぞれが感情移入をする対象は違うでしょうが、多くの人が、主婦であり、脚本を担当した鈴木みや子に感情移入をしてしまうのではないでしょうか?その作り方が絶妙です。「何だ、この人は!」とか「いかにも、この人っぽいよな〜」とか、つい口ずさんでしまいます。

 

自己中度合いが最高

 

よくも悪くも、それぞれが自己中。だからこそ、衝突の結果、面白いストーリーが展開していきます。自分のキャラクターの名前を勝手に変えるところから始まり、人物の職業を変え…役者たちがわがままな要求を出します。それに困る鈴木みや子。思い入れのある作品であることから、絶対に変えないで欲しいと食い下がりますが、それでも、「向こう側」の都合でどんどんと話が変わっていってしまうのです。漁師だったはずの男性が、パイロットになり、パイロットになったことで、「海に溺れているヒロインを助ける」という設定に無理が出て、辻褄を合わせるように、ダムの決壊に設定を変える始末。元々の話とは全く関係のない方向へ。最初の「割れ目」を直そうとしていたら、どんどんと「ひび割れ」が大きくなって…トンデモナイ方向へ…とでも言いましょうか。製作者たちが勝手に(質の高い作品を提供するかどうかよりも、とりあえず、無事に放送しきるという点だけに意識を向けて…)話のつじつま合わせを繰り返していきます。

 

話は捻じ曲げられるという教訓

 

このつじつま合わせという側面から面白いことがわかります。考えてみれば、このようなことはあらゆる場所で行われているでしょう。いつからか、目標が「本当にいいものを提供する」ではなくなり、何か他のインセンティブだけに囚われて、ただ「穏便にこなす」だけになる。テレビ業界でも、ラジオ業界でも、映画業界でも、雑誌業界でも…枚挙にいとまがありません。三谷幸喜監督は、そんな、形骸化した負の側面を炙り出しているのです。しかも、面白おかしく。実際、この『ラヂオの時間』は、三谷幸喜監督自身が脚本を担当したテレビドラマが勝手に書き換えられたことにより、誕生しました。考えさせられるものがありますね。

 

信念を貫く人でありたい

 

自分だったら、どうなのか。考えてみると面白いものです。例えばテレビのADだとして、いつもディレクターや構成作家から怒られてばかりで…そんな日々が続いたら、「いいものを」というよりも「怒られずにうまくやる」方法を探し始めるかもしれません。中途半端に出世したらどうでしょうか?役者やディレクターの板挟みになるかもしれません。『ラヂオの時間』でも、この板挟みの要素が絶妙に描かれています。ここからわかるように、三谷幸喜監督は、「変える側も、やりたくてやっているわけじゃない」という苦しい事実を把握しているのでしょう。その中でも、何とか、それぞれが折り合いをつけながら、作品は展開していきます。当然、複数人での作品作りとなると、意見の食い違いや衝突はあります。しかし、大事なのは、そんな状況でも、初心を忘れずに、フレッシュな気持ちで、「真の目標」を追い続けることかもしれません。実際、本作品の中でも、鈴木みや子に感化された一人が、革命とも言える英断を下し、いき過ぎた話の改変を防ぎます。そして、何とか、最後には、皆が「やってよかったね」と言える瞬間がやってくるのです。人間のエゴやめんどくささが絶妙に表現されており、学べることは多い上に、笑える。ぜひとも、日本の人のみならず、海外の映画ファンにも紹介したい作品です。

 

海外旅行前好きが見ておきたい海外の名作映画まとめ(3作品紹介)

 

海外旅行も映画もどちらも、楽しみながら大きな学びを得られるという意味で、非常に似通っています。新たな世界へ飛び出して、今まで見聞きしたことのない何かに触れることができます。これらの効果をより一層高めるためには、海外旅行と映画を組み合わせてしまうのがオススメです。映画で見た世界への好奇心にしたがって、その舞台となった国や都市を旅行してしまったり、海外旅行で訪れた場所についての知識を深めるために関連する映画を見てみたり。今回は、海外旅行好きが是非とも見ておきたい海外の名作映画をまとめてご紹介します。

 

1. 『ミッド・ナイト・イン・パリ』

 

旅好きの間でも圧倒的な揺るぎない人気を誇る場所、それがパリ。いかにもおしゃれな街で、ここにある全てがおしゃれな雰囲気で溢れています。ヨーロッパ好き、フランス好きなら、必ず見ておきたいのが『ミッドナイト・イン・パリ』でしょう。パリを旅行しているような、パリに住んでいるような、また、パリで恋しているような体験を画面を通して楽しむことができます。VR作品として是非とも実現してほしいと思う名作です。この映画を見て、作中に登場する様々な場所をチェックして、実際に旅行で訪れてみるのもいいかもしれません。

 

2. 『ペーパー・ムーン』

 

素敵な白黒の世界観。美しい人間劇。洗練されたカメラワーク。心和むストーリー。そして旅。あらゆる要素が詰め込まれているにも関わらず、シンプル。そんな作品がこのペーパー・ムーンです。物語の主役はある詐欺師と、その人の元に突然現れた少女。この二人が一緒に長距離を移動しながら、絶妙な掛け合いを行います。ロードムービーなので、一緒に車で旅をしているような臨場感すら抱くことができます。さらに注目してほしいのが少女(テータム・オニール)の圧倒的な演技力です。とってもナチュラルでありながら深みのある演技を披露しています。原作は、小説『アディ・プレイ』です。テータム・オニールは現に、この作品での演技が評価されて、史上最年少での助演女優賞を獲得しています。さらに面白いことに、その詐欺師の男(ライアン・オニール)と少女は実の親子という関係。実際の親子が劇中で見せるコンビネーションは圧巻の一言。この映画に触発されて、アメリカの大地をオープンカーで駆け抜けてみたいと思う人も少なくないはずです。事実として、アメリカの広大な自然はあらゆる観光客を魅了しています。どこまでも広がる大地。まっすぐに伸びた道路。そんな場所を風を感じながら駆け抜ける。死ぬまでにやっておきたいことリストの中に是非とも書き加えてほしいものです。

 

3. 『カサブランカ』

 

カサブランカは不朽の名作として世界中の映画ファンを沸かせてきました。映画好きならまず知らない人はいないというほどの有名作品です。見たことがない人でも、すでにその名前はどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか?この物語の舞台は北アフリカ、モロッコの都市カサブランカ。カサブランカという名前ばかりが先行して、この国の首都がカサブランカだと勘違いする人がいますが、実は、ラバトという都市が首都なのです。話を戻すと…この映画の美しさは世界観。まさに魅惑の国であり、美しき都市。実際に、モロッコのカサブランカが美しい街かどうか…確認したい人は是非とも、この映画を見た後にモロッコを訪れてみてください。モロッコ旅行について言えば、モロッコの治安は特殊で、少しばかりの注意は必要でしょう。しかし、それだけの美しい場所も多数存在し(シェフシャウエン、フェズ、マラケシュなどなど)訪れてみる価値は大いにあります。日本人の間で人気が高まっているモロッコなので、今のうちに、映画『カサブランカ』を見ていない人はチェックしておいてください。

 

終わりに

 

ちなみにモロッコは北アフリカの一番北の先端に位置しているので、ここからスペインまでフェリーで移動することもできます。モロッコとヨーロッパを一緒に旅行するというプランもありかもしれません。さらに北上すればフランスのパリがあります。アラブ圏の国とヨーロッパの文化や人々、雰囲気の違いを比較しながら旅をしてみるのもいいものです。また、iTunesやAmazonからタイトルを購入してスマートフォンに保存することで、海外旅行中にその場で映画を楽しむこともできます。パリで『ミッドナイト・イン・パリ』を楽しむなんて、最高の贅沢だと思いませんか?例えばフランス旅行では、TGVなどの長距離鉄道を頻繁に利用することになるでしょう。そんな長旅のお供としても映画が大活躍してくれるはずです。