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映画『ラヂオの時間』レビュー

 

 

今回は三谷幸喜監督作品『ラヂオの時間』についてのレビューを行いたいと思います。あくまでも私の視点からのコメントになりますが、ご容赦ください。ちなみにラヂオの時間はNetflixで現在公開中ですので、すでに登録されている方は是非ともチェックしてみてください。

 

煩雑な雰囲気が秀逸

 

『ラヂオの時間』には煩雑な雰囲気がたっぷり盛り込まれています。あっちで小言が聞こえ、こっちで怒号が飛び。通常、映画は、決められた空間が前面に出てしまうものです。例えば、あまりにも、相手が話している間、沈黙を守ったり、決まり切った順番で人が話し…といった具合です。この映画には、そんな不自然さがありません。映画である以上、セリフが決められているのですが、それを全然感じさせない、絶妙な空気感が漂っているのです。いいい意味での、気持ちのいい「煩雑さ」があるのではないでしょうか。三谷幸喜監督の作り出した、ナチュラルな空気感であり、それを役者が見事に体現しています。

 

登場人物の個性が絶妙

 

登場人物の個性にはやられます。それぞれに「こんな人いるよな〜」と思ってしまうのです。そして、次の瞬間には感情移入をしてしまいます。人それぞれが感情移入をする対象は違うでしょうが、多くの人が、主婦であり、脚本を担当した鈴木みや子に感情移入をしてしまうのではないでしょうか?その作り方が絶妙です。「何だ、この人は!」とか「いかにも、この人っぽいよな〜」とか、つい口ずさんでしまいます。

 

自己中度合いが最高

 

よくも悪くも、それぞれが自己中。だからこそ、衝突の結果、面白いストーリーが展開していきます。自分のキャラクターの名前を勝手に変えるところから始まり、人物の職業を変え…役者たちがわがままな要求を出します。それに困る鈴木みや子。思い入れのある作品であることから、絶対に変えないで欲しいと食い下がりますが、それでも、「向こう側」の都合でどんどんと話が変わっていってしまうのです。漁師だったはずの男性が、パイロットになり、パイロットになったことで、「海に溺れているヒロインを助ける」という設定に無理が出て、辻褄を合わせるように、ダムの決壊に設定を変える始末。元々の話とは全く関係のない方向へ。最初の「割れ目」を直そうとしていたら、どんどんと「ひび割れ」が大きくなって…トンデモナイ方向へ…とでも言いましょうか。製作者たちが勝手に(質の高い作品を提供するかどうかよりも、とりあえず、無事に放送しきるという点だけに意識を向けて…)話のつじつま合わせを繰り返していきます。

 

話は捻じ曲げられるという教訓

 

このつじつま合わせという側面から面白いことがわかります。考えてみれば、このようなことはあらゆる場所で行われているでしょう。いつからか、目標が「本当にいいものを提供する」ではなくなり、何か他のインセンティブだけに囚われて、ただ「穏便にこなす」だけになる。テレビ業界でも、ラジオ業界でも、映画業界でも、雑誌業界でも…枚挙にいとまがありません。三谷幸喜監督は、そんな、形骸化した負の側面を炙り出しているのです。しかも、面白おかしく。実際、この『ラヂオの時間』は、三谷幸喜監督自身が脚本を担当したテレビドラマが勝手に書き換えられたことにより、誕生しました。考えさせられるものがありますね。

 

信念を貫く人でありたい

 

自分だったら、どうなのか。考えてみると面白いものです。例えばテレビのADだとして、いつもディレクターや構成作家から怒られてばかりで…そんな日々が続いたら、「いいものを」というよりも「怒られずにうまくやる」方法を探し始めるかもしれません。中途半端に出世したらどうでしょうか?役者やディレクターの板挟みになるかもしれません。『ラヂオの時間』でも、この板挟みの要素が絶妙に描かれています。ここからわかるように、三谷幸喜監督は、「変える側も、やりたくてやっているわけじゃない」という苦しい事実を把握しているのでしょう。その中でも、何とか、それぞれが折り合いをつけながら、作品は展開していきます。当然、複数人での作品作りとなると、意見の食い違いや衝突はあります。しかし、大事なのは、そんな状況でも、初心を忘れずに、フレッシュな気持ちで、「真の目標」を追い続けることかもしれません。実際、本作品の中でも、鈴木みや子に感化された一人が、革命とも言える英断を下し、いき過ぎた話の改変を防ぎます。そして、何とか、最後には、皆が「やってよかったね」と言える瞬間がやってくるのです。人間のエゴやめんどくささが絶妙に表現されており、学べることは多い上に、笑える。ぜひとも、日本の人のみならず、海外の映画ファンにも紹介したい作品です。